思ったことをはきだしたいな

基本的に顔のいい男がすきです。楽しいことも悲しいことも、色々考えすぎてパンクしそうになったら書きに来ます。

対象への愛が必須条件です

 

嵐が更新されなくなってから、1ヶ月半が過ぎました。思っていたよりもずっと、強く生きています。みなさまはいかがかな。

 

この1ヶ月半で、嵐ってやっぱりすごいなぁって思ったことを忘れないように書いておきたい。その姿を見なくなって気付くことって、情けないことに結構ある。

 

これはそういう情けないオタクが、寂しさで泣きながらそれでも嵐が好きだよって叫んでいる内容の薄い作文です。結局寂しさよりも愛が勝っているので、ハッピーお花畑作文です。今日も元気におはなが咲いてるなァ!!!!!!!

 

 

嵐ってやっぱり、すごいなァ!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

バラエティにおけるバランス

最強なんですよね……嵐のバランスってやっぱり最強なんだなぁって、好きだなぁって……オタク、泣きながらそう思った……。

 

そう思ったのはVS魂を見てから。

相葉くん及びに魂レギュラーメンバーには本当に申し訳ないのだけど、私は魂初回放送のとき、楽しむ気持ちとともにどうしようもない寂しさを感じていた。嵐がいない番組に、嵐の色を探してしまっていた。

番組の構成も、セットも、全てに「嵐」の面影があまりにも色濃く残るのに、そこに「嵐」がいない。その事実にしんでしまった。ちょっとこれは個人的なアレなんですが、VS魂、VS嵐の雰囲気引き継ぎすぎでは……?

それが悪いって言ってんじゃなくて、なんかあの、こんなの後輩くんたちも後輩くんたちのオタクもめちゃくちゃプレッシャーじゃない……?と思ってしまったんですよね。現に私みたいなめんどくさい拗らせオタクは、放送初回はどうしても嵐を重ねてしまったし嵐と比べてしまったよ。

 

この場面、翔くんならこうやって話振るかな。二宮くんがいたらこうツッこむかな。大野くんがいたら、潤くんがいたら、相葉くんはこういう反応をしたんだろうな。こんなことばかり考えてしまったよ。本当に申し訳ない。(今はそんなことないです)

 

嵐のことを考えて、だけど嵐がいない事実に寂しくなって、それと同時に、嵐ってすごいんだなって思った。「この場面なら誰がどんな立ち位置でどんな役割を担うのか」が容易に想像できたし、それができるのは普通じゃないんだって気付かされた。

 

全体を見て時間配分を気にして、バランスよくゲストさんに話を振りながら流れを作ってくれる翔くんがいるから、生放送もはじめてのゲストさんも安心する。

空気を読んでボケにもツッコミにもなり、影で全体をサポートしながら流れに緩急をつけてくれる二宮くんがいるから、番組が盛り上がり飽きがこない。

予想外の言動でインパクトとともに名場面を量産し、絶えぬ笑顔が流れに穏やかさを与えるムードメーカー相葉くんがいるから、誰からも愛される温かみが生まれる。

緊張感やワクワク、まず自分たちが楽しむための仕掛けや提案とともに新しい流れを作ってくれる潤くんがいるから、何年続こうと革新的なものが生まれる。

抜群のセンスで流れの中にオチをつくり、全体の雰囲気をまとめあげてくれる大野くんがいるから、ずっと安定感が崩れない。

 

凄いことなんだこれは。凄かったんだ嵐は。

誰かがボケても誰もツッコんでくれなければ成り立たないし、流れをつくってもそこに楽しめる要素が乗ってこなければ意味がないし、要は誰1人として欠けてはいけなかった。嵐のバランスはとても繊細で不安定であるのに、圧倒的だった。

冠バラエティがあるひともいるし、二宮くん代打回ではこれらの役割を全部やってのける二宮くんというものを目の当たりにしているので、1人で全部できるポテンシャルだってあることは分かってる。それでも「5人」で居る時に、「グループ」の番組であるときに、それぞれがそれぞれの役割と立ち位置の中で、誰一人燻ることなく輝き、そして共演者に楽しいと思って貰える。こんな凄いことはない。

 

嵐でなくても、グループを推しているオタクであれば、その中での個々の立ち位置や役割というのは当然理解していると思う。ただ、実際に自担がその「グループ内での役割」を番組の中で生かすことができるか、個性をいかんなく発揮できるかとと言われると、それは簡単なことではない。

爪痕を残せないかもしれない。自分たちばかり目立って、上手にゲストさんの話を引き出せないかもしれない。テンポよく話を進められないかもしれない。

バラエティってきっとすごく難しい。オタクが想像する理想の冠バラエティ、本当にめちゃくちゃ難しい。

だからこそ一人一人が「グループ内での立ち位置」を「番組内での立ち位置」に生かす、その努力を思い知った。嵐のバラエティ力は凄い。「また来たい」と言って貰える、参加者が楽しめる番組の中心に居た彼らは凄かったんだ。凄かったと、居なくなってから気付かされるくらいに自然に、凄かったんだ。

 

そんなことを、VS魂初回と二宮くん回あたりで考えていました。

VS魂のレギュラーメンバーは、もともとはグループではない。だから自分たちのグループでの立ち位置は番組での立ち位置に直結しない。相葉くんだって、あの中では最年長のリーダーとして番組を引っ張る立ち位置に居る。「嵐」だったら見られない相葉くんの姿。それはきっとほかのメンバーも同じで、グループの枠を飛び出して、VS魂という場所で、みんながそれぞれ輝ける振る舞い方を見つけていって欲しい。

最初はついつい「嵐」の面影を探してしまったけど、そんなものはなくて正解なんだ。「嵐」でなくていいんだ。VS嵐のゲームは残さないと言った相葉くんも、同じ気持ちなんじゃないかと思うんだ。「嵐」の色があまりにも残るあの番組の中で個性を出していくのはきっと難しくて、これからも比べられたりすることがあるかもしれないけど、どうか自分たちの色を見失わずに頑張ってほしいです。

何様なんだ私は。終われ

 

 

グループ愛

こんなのさ、ずっと知ってたのにね。ずっとずっと知ってたはずなのに、また知ったんだよね。私が思っている5億倍、嵐は嵐のことが好きなんだなって、知ってはゲロンゲロンに泣いた。すごいブス。

 

大野くん以外の個人の活動は2021年現在も続いているわけで。そういう個人のテレビやラジオといった媒体で、「こんな連絡しました」「こんなメッセージ貰いました」といったメンバー同士の交流を、こんなに伝えてくれると思ってなくて。まぁ泣いてしまいました。泣きながら笑ったのでこれは実質愛を叫べ(?)

 

グループ活動がなくても個人の番組ちゃんと見てるし、頑張ってねって連絡するし、見たら見たで感想送るし、体調崩せばお見舞い送るし、誕生日にはプレゼントあげるし、こんな すごい 関係性が密で~~~~~~~~す(万歳三唱)(国家平和)

なんだろうな、この……信じていたものが形になる感じがな……すごくてな……物理的に距離ができようと揺らぐものなんてないって、そんなの知ってたし信じてたけど、こうやって本人たちの口から聞く事実があまりにも尊くて嬉しくてな……。

12月31日にべちょべちょに泣きながら「ありがとう~~~~~」なんて言ってたオタク、三が日くらいは生ける屍みたいになってたので(自己紹介)、メンバー同士の交流を沢山お話してくれたのは本当に本当に救われた。嵐が好きだって、言葉にしてくれる嵐が好きだ。

 

 

5人

これは非常に難しいというか、上手にことばに出来ないことなんだけども。

そもそもグループ活動において、「ずっと人数が変わらないこと」が正しい形かと言われたらそんなことはない。だから応援するほうも、そこをグループの強みにするのはとてもリスクが高いと思う。

それを嵐は、自ら口に出していく。「5」が大切な数字だと、声に出して歌にして伝えてくる。そこに誇りすら抱いて、真っ直ぐな目で。

凄いグループだと思うし、ヤバいグループだと思った。休止発表の会見のときも思ったけど、嵐はヤバいグループなんだと思う。嵐は一人だけ違う道を、ではなく、5人で一緒に、を選んでしまう。5人の絆の固さもあるけど、「5人じゃなきゃできないこと」への思いがめちゃくちゃ強くて、そして、とても強くて脆いグループなんだと思った。

バランスのとこでも言ったけど、嵐メンバーの個々のポテンシャルは非常に高い。1人でもできることは沢山ある。1人じゃできないことは2人いればできたりする。それでもできないことは3人で、それでもできないことは4人で、できることは沢山、沢山ある。だけど何よりも、「5人じゃなきゃできないこと」「5人だからできること」を大切にする。オタクではなく、本人たちが。本人たちが頑なに、5人で居ることを選び続ける。

こんなに繋がりは固いのに、こんなに5人の嵐は強いのに、1人でも欠けちゃいけない、という脆さ。「5人で嵐」の力強さの裏にある、「1人でも欠けたら嵐じゃない」の弱さ。ともすれば「嵐」に縛り付ける呪いのような「5」という数字が、彼らにとって誇るべき数字であり、宝物なのだという事実。

 

普通にヤバい。意味が分からない。

 

いま、「5人」の姿を見られなくなったというのに、5人の姿は見えないのに、嵐はいつだって5人だ。5人で嵐だと、ほかでもない嵐本人によって、オタクの脳髄に刻まれてきた。ある種刷り込みのように、5人の嵐が輝き続ける。ヤバい薬みたいだ。嵐はヤバい。

脆くて強い、「5人」の嵐が好きな私も、大概ヤバくて救えなくて、そんな自分が好きなのだ。

 

 

自担の存在

「嵐」の休止となったときに、考えた。私は嵐が嵐でなくなっても、自担を推し続けることができるだろうか。逆に、自担が嵐ではなくなったときに、自担がいない嵐を推すことができるだろうかと。

 

2年かけて考えて、答えは出なかった。

 

自担は、二宮和也さんは器用なひとだ。

手先もそうだけど、場面場面に応じた振る舞い方がとても上手なひとだと思う。「ここは笑った方がいい」「ここはイジったほうが盛り上がる」「ここはふざけないほうがいい」 こういう選択がすごく上手。とても器用。

その選択基準のおっきなところに「嵐の4人が気持ちよくいられるかどうか」があるのが、この人を沼たらしめていると思う。

自分のことを後回しにしているわけでも、自分のことを蔑ろにしているわけでもなく、4人が楽しくいられるときに自分自身も一番楽しめるって、二宮くん自身がそのことを知っているから、いつだって嵐を優先するひとだ。

器用で優しいひと。優しくて強いひと。人に頼らずとも自分の足でしっかりと立っているひと。二宮くんはそういうひとだった、いつだって。

 

そんな二宮くんが、この休止に際して、いちばん大切でいちばん優先してきた「嵐」を離れるに際して、とてもとても不器用に感情を溢す姿を、見てきた。不安定に揺れる瞳を、震える声を、涙を、見てきた。

この人は嵐がいればとても器用で強いひとだけど、だからこそとても不器用で弱いひとなんだって、気付いた。

 

二宮くんは歌えるし、踊れるし、喋れるし、頭も回るし、お芝居もうまい。ひとりでも生きていけると思っていた。

それなのに二宮くんは、自分の言葉はすべて4人に向けた言葉だったって言うんだ。すべてだ。ひとりでも生きていけると思っていた二宮くんは、4人がいなければことばすら紡げないようなひとだった。とても弱いひとだった。

 

二宮くんは20周年のときも、休止が差し迫ったときも、嵐について多くを語ろうとしなかった。語らないって決めてる、本人がそう言っていた。そういうことを器用にやってみせるひとだった。分かりにくくて掴めないひとだった。

それなのに二宮くんは、最後に零れ落ちるように、わがままを口にした。さみしい。もっと一緒にいたかった。さみしい。さみしい。そういう感情が溢れていた。あまりにも分かりやすかった。だけど「さみしい」という言葉を使わないあたりが、とても不器用だと思った。

 

綺麗だった。とてもとても綺麗だった。

二宮くんが語る嵐が、二宮くんの瞳に映る嵐があまりにも美しくて、どれだけ多くの称賛の言葉も、どれだけ綺麗に撮られた写真も、それに敵うことはなくて。

こんなにも綺麗にグループのことを映してくれる二宮くんが、嵐に居てくれて良かったと思った。そして、こんなにも二宮くんが綺麗に生きているのは嵐のおかげだと思った。

 

 

嵐ではない自担のこと。自担がいない嵐のこと。

2年間考えて答えは出なかった。そうなってみないと分からない。

 

だけど確実に言えるのは、「二宮和也がいる嵐」が私にとっては一番輝いている嵐だし、「嵐の一員である二宮和也」が私にとっては一番輝いている自担だ。こう思わせてくれる年末年始を過ごした。こう思わせてくれる、「嵐が更新されない1ヶ月半」を過ごした。

 

結局すべてバランスだし、結局すべてグループ愛なのだ。

嵐のバランスはバラエティだけではない。5人の魅力が相乗効果で増していく奇跡のバランス。だから嵐にいる自担が世界一だ。

嵐のグループ愛は私の想像を超える。自担のそれはほかの4人に比べて素直じゃないかもしれないし、あまり言葉にはしてくれないかもしれない。だけど4人がそれを分かっているから、分かっていることがもう愛なのだから、想像を超えてそこに存在する。

 

そして結局すべて「5人」なのだ。5人だから。5人じゃなきゃ。結局すべて、ここなのだ。ファンではなく本人たちが言い続けた、呆れるほどまっすぐで繊細なことばが、すべてなのだ。

 

 

 

 

嵐が好きだ。自担が好きだ。

寂しい、悔しい、いやだな、涙がでることもある。

それでも圧倒的に好きだ。どうしても好きだ。

1ヶ月半自分が案外強く生きてこられたのは、自分の「好き」が絶えず更新されてきたからだと思う。どうやら私はクソデカ感情自動アップデート機能付きのオタクだったらしい。5人の笑顔や5人の歌声、それら自体が更新されずとも、私のクソデカ感情は好きも寂しいも含めてどんどん更新されていく。そうやって生きている。

なんて厄介で、幸せなオタクなのだろうか。

 

 

 

 

「嵐」は今日も更新されない。

だけど私の「寂しい」は更新されていく。

いまの5人の「あらしで~す!」を聞きたいし、笑顔が見たいし、歌声を聴きたいし、コンサートにも行きたい。それは本音であり、いくら月日が経とうと消えない。なんならデカくなる。声に出してしまうこともあるかもしれない。

それでもそう思う自分を否定しないで生きよう。どんなにクソアプデでも、そのクソデカ感情を受け止めよう。自担のように美しくも深くもない不格好な寂しさも、悔しさも、ちゃんと向き合って生きよう。

 

 

「嵐」は今日も更新されない。

だけど私の「好き」は更新されていく。

それは個々でお仕事をしている4人の言葉を聞いてかもしれないし、歌を聞いてかもしれないし、過去の映像を見てかもしれない。

だけど共通して言えるのは、特別親しかったわけでも気が合うわけでもなかった少年たちが21年という時間の中でつくりあげたバランスと、積み重ねた努力と分かち合った感動の上で育んだグループ愛という大前提が、更新の条件だということだ。限定的すぎてしぬんだとおもう

それでもそうして更新されたときは、それこそ声に出そう。すきだ~って声に出して、言葉にして残そう。

 

 

「嵐」は今日も更新されない。

そんな世界で強く生きた自分を、厄介で幸せな自分を、そうさせてくれた5人との奇跡のような出会いを、今日も誇って生きていく。